昨日(平成15年3月10日)朝8時ごろ、島根にロケハンに行っていた古川より私の家に電話があり、「しっかり聞いてください、下村さんが亡くなりました。いつ亡くなったかわからへんのです。お風呂の中でした。僕が引き揚げました。詳しいことは後で。」と言って電話が切れました。
頭の中では目まぐるしく元気な頃の下村さんの笑顔と、お風呂の中でいったいどんな状態だったのかという思いが駆け巡り、自失茫然。こんな仕事をしていると何度か咄嗟の場面に出くわすのですが、いつも動転してしまい冷静さを失ってしまいます。
私が最後にお目にかかったのは2月3日、岡崎宏三キャメラマンと今春撮影の映画「アイ・ラブ・ピース」(大澤 豊 監督作品)の打ち合わせのため、弊社を訪れて下さいました。私はノート片手に打ち合わせのメモを取ろうとしていたのですが、なかなか本題に入りません。旧き良き時代の映画の話をされ、本題はほんの数分で終わりました。お二人がコンビを組んで60年にも及ぶのですから日本映画界にとっては『生き字引』ともいえる存在です。「お互いのつれあいより永いコンビなんだよ、僕たちは、、、」岡崎さんと下村さんは夫唱婦随のような関係で「あ、うん」の呼吸だったろうと思います。
私には大変優しい「おじいちゃん」のような方でした。(年齢的には親子ほどの差ですが)ある作品でプロデューサーが下村さんに「今回の作品の照明予算は***です。この範囲でお願いします。」と言ったのです。下村さんは早速わが社に来られ、「僕はね、今まで予算のことを言われたことがないんだ、今回はじめて聞いたけど、この予算でいけるの?僕わかんないんだ。もしいけなかったら言ってね、何ともしようがないけど、考えるからよろしくね。」と心配そうに、だけどあっけらかんにおっしゃいました。どんな作品でも予算という枠があります。今までその枠を心配せずに仕事できたというのですから大変幸運だったと思いますが、これはまわりの方々が下村さんだったからこそ、その枠に縛らなかったのではないか、と私なりに考えました。実際、その作品は予算内に収まりましたし、無理難題を言われたこともありません。下村さんならではの温和な人柄の良さが滲み出ている言葉でした。前回の作品「アイ・ラブ・フレンズ」を撮り終えたとき、「もうこれで最期にするからね、家内がもうやめてって言うんだよ。」と、でも帰り際には「また来るからよろしくね。」と元気に帰っていかれました。「下村さん、やめる、やめるゆうてまたしはるんやから。現場で死んでもええやん。」ほんまにそうなってしまいました。
永年、日本映画テレビ照明協会の会長としてフリーの技術者を束ねてこられた業績、数々の日本映画の照明技師として活躍された業績はすばらしいものですが、それらのひとつひとつを当たり前のように飄々とこなしていたことが下村さんならではの人格のなせる業だったと思います。
お酒が大好きで飲み始めるとピッチが早く、殆んどつまみを召し上がりません。はっきりと聞き取れない声で戦争に行ったときの話や、世界各国にロケに行ったときの話など目を爛々と輝かせてして下さいました。あの笑顔とかわいいちょび髭にもうお目にかかれません。享年82歳。ご冥福をお祈りいたします。
平成15年3月11日
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