私の父、古市良三(通称名:収)がこの会社の創立者です。
父は四国の高松市、母は丸亀市の出身です。
父は東京電機大学夜間部を卒業し電気工事の資格を持っていました。
俳優、阪東妻三郎のスポンサーであった大分県出身の立花良介さん(そのころは財閥でした。)
が撮影所を作るのに電気技術者が必要だとのことで遠縁にあたる、電気工をしていた父を京都に呼んだのです。
そして阪東妻三郎に嫁が必要とのことで父と一緒に育った静子さん(良三の父、古市粂太郎と静子の父、尚次郎が兄弟)が嫁ぐことになりました。
阪妻さんの出演ギャラは常にキャッシュで親父が運んだときはリヤカーにいっぱいになって運んだと言っていました。
親父の駈け出しの頃(私が生まれたとき) 住まいは現在の東映撮影所の前にあり その後JR嵯峨駅の裏に引っ越しました。
ここでは阪妻さんと家が隣同士(家の所有者は阪妻さん)となり田村三兄弟(本当は四兄弟)と共に私は育ちました。
東映撮影所も一時は阪妻プロダクションの所有物でしたし親父は電気の専門性を生かしコツコツと照明機材をためていたようです。
(アメリカとの合作映画“あんたはんの女王:阪妻出演、スタンバーグ監督”をしたときにアメリカからもってきた照明機材を
譲ってもらったことが親父の事業独立に大きく影響したようです。) 阪妻プロダクションの社長を兼ねながら
照明助手を派遣する仕事をし照明機材のレンタル屋を始めました。
阪妻さんが若くして(昭和28年52才)亡くなった後 父は現在の太秦に引っ越しして大映撮影所の照明の仕事をしました。
父が照明課長を辞めた後、課長になった人がその後に市会議員になった宮本栄八さんです。(今は息子が市会議員)
父は仕事を会社組織にして完全に独立会社にしましたが これは日本で一番古い映画照明の専門会社です。
一時は照明助手を90人あまり大映撮影所に派遣していたこともありました。何故「嵯峨映画」という名前にしたのか?
それは親父に聞くのは忘れましたが多分 阪妻さんとの共同事業の中で制作会社を作るのも夢だったのかなあ、と推測しますが定かではありません。
その後、両親は極貧な状態で数々の苦労を重ねて 会社は現在に至ることができました。 |